■無料ホームページスペース■

日本の教科書の一部のページ  Textbook of Japan

今回の中国の反日デモが切っ掛けで日本の教科書の日中戦争についてまとめてみました。
日本の教科書の内容です。

ちなみに、私は
日本なんてどうでもいいと思ってました。愛国心なんて無い人間だとおもっていましたが
今回の用な事件が起こると何故か、愛国心が沸いてきます。

もし、これでも日本の教科書は,,,だとおっしゃられる方が居るようでしたらその事を的確に指摘しては如何でしょう?
是非、中国の教科書と見比べて見てください<中国の人
注*日本の教科書の内容を的確に表すため日本の教科書内容をそのまま書いております。
もし消せといわれるのでしたら即削除致します。

vip_jp@hotmail.co.jp←まで送ってください。

日中戦争と戦時体制
■日中戦争
満州国の実験をにぎった日本の軍部はさらに華北を侵略した。
1937(昭和12)年,北京郊外で日本と中国の軍隊が衝突した。
事件後,現地軍や陸軍内部で拡大派と不拡大派が対立していたが,
政府の和平交渉も失敗し,前面戦争へと戦火はひろがっていった(日中戦争)。

当時,内戦を続けていた国民政府と 毛沢東(マオツォトン) の指導する中国共産党は,
日中戦争がおこると抗日統一戦線を結成した。日本軍が華北の要地や南京・広州などを占領すると,
国民政府は首都を奥地のチョンチンに移し,アメリカ・イギリスなどの援助をうけて交戦した。
その後日本軍は,戦線を拡大し,やがていつ果てるともしれない長期戦となった。
(図☆日中戦争)
1937年7月,北京郊外のルーコウチアオ付近で日中両軍の小衝突がおこったのをきっかけに,全面的な日中戦争が始まりました。

■日本軍と中国民衆
日本軍の物資の補給体制はきわめて不十分だった。
日本軍は,占領した地域で物資や労働力を徴発し,食料などもその地で確保した。
このため物資の略奪・法化・虐殺などの行為もしばしば発生した。
とくに南京占領にさいしては,捕虜・武器を捨てた兵士,老人,女性・子どもまで含めた民衆を無差別に殺害した。
戦死した兵士もあわせたこのときの死者の数は,多数にのぼると推定されている。
諸外国は,この南京大虐殺事件を強く非難したが当時の日本人のほとんどはこの事実さえしらなかった。
こうした日本軍の行為は,中国民衆の日本への抵抗や憎悪をいっそう強めることとなった。

元の教科書画像
■加害者としての日本

アジア太平洋戦争中,政府は「大東亜共栄圏」構想を唱え,欧米植民地支配に代わって,
共存共栄の新秩序をアジア地域に樹立すると称した。
しかし,それは,戦争遂行に必要な資源の確保をめざしたアジア侵略政策
を正当化するためのスローガンにすぎなかった。
その結果,「大東亜共栄圏」の美名とはうらはらに,中国や朝鮮,東南アジア,太平洋諸島の国々では,
数百万にのぼる人々が戦闘や虐殺,強制労働や飢餓などの犠牲となった。

△軍票(↓画像)
日本軍は占領地で通貨の代わりとして軍票(手形)で支払いをしたが,
日本の敗戦によって紙くずと化した。


■日本のアジア侵略(↓画像)
日本軍がフィリピンで配った大東亜共栄圏宣伝ポスター。
各地の占領地を示している。


△中国での日本軍(↓画像)
中国民衆が「参考(殺光=殺しつくす,焼光=焼き尽くす,略光=奪いつくす)作戦」とよんだように,
民衆への暴行・虐殺や村の破壊を行った


△戦場への動員(↓画像)
朝鮮や台湾では徴兵令が公布され,民衆を兵士としても強制的に動員した。


△採掘場で働かされる朝鮮人(↓画像)
政府は国内労働力不足を補うため,朝鮮人・中国人を強制的に連行した。
その数は朝鮮人100万人,中国人約4万人にのぼった。


△クアラピラ(マラヤ)の華橋虐殺の慰霊碑と埋葬された犠牲者の遺骨(↓画像)
日本軍は侵略したマレー半島のシンガポールやマラヤで,共産党員や抗日分子,
日本軍への態度不遜者とみなした多数の華橋を虐殺した。その数はマラヤ全土で10万人といわれている。


△捕虜虐待 (↓画像)
「生きて虜囚の辱めを受けず」と育成された日本軍にとって,捕虜虐待は当然の帰結だった。
タイでは「泰緬鉄道」建設に連合軍捕虜を動員し,亜熱帯での過酷な労働と栄養不良によって約1万人の死者をだした。
アジア各地から強制微用した「ロームシャ」約4万人も犠牲者となり,泰緬鉄道は「死の鉄路」とよばれた。



△ビルマの油田を攻略する日本軍(↓画像)
東南アジアの石油資源の獲得は,戦争遂行のためにもっとも重要視された。


△日本軍によって組織された「労働奉仕団」(↓画像)
日本軍による占領地住人の微用は,「大東亜共栄圏」の東南端,パプアニューギニアでも広く行われた。
「労働奉仕団」の名の元に,住民を軍事目的に重労働にかりたてた。


元の教科書画像
■戦争の終結
1943年9月のイタリアの降伏に続き、ドイツも1945(昭和20)年5月,連合国軍に無条件降伏し,
ヨーロッパでの戦争は終わりました。
一方日本は,広島,長崎に原子爆弾を投下され,ソ連も旧ソ中立条約を破り
満州(中国東北部)に攻めこんできました。この結果,日本は,
8月14日にボツダム宣言を受け入れて降伏することを決め,
翌8月15日,天皇はラジオ放送でこれを国民に知らせました。

こうして,第二次世界大戦は日本の降伏で終わり,
満州事変から15年間の国民の苦しかった戦時下の生活も終わりました。
また,日本の植民地とされた朝鮮や台湾,日本軍に占領されていた中国や東南アジアの人々はようやく解放されました。

■いまも残る戦争の傷あと
第二次世界大戦での日本軍の死者は約155万人といわれ,空襲や原爆,さらに沖縄や満州でも多くの一般人の人々が亡くなりました。
また,ソ連の参戦後に,捕虜となってシベリアに抑留された人のなかでも多くの死亡者がでました。
中国には敗戦後,満州で肉親と生き別れて中国人に養育された数千人の中国残留日本人孤児がいます。
この人たちの肉親さがしが1981年からはじまりましたが,身元が判明した人たちはわずかです。
厳罰の後遺症で苦しんでいる人もたくさんいます。
また,日本が占領したアジアや太平洋の地域の人々にも多くの人的・物的な損害を与えました。

■戦後のはじまり
空襲によって住宅や工場が焼かれ,多くの人々は住む家も職もありませんでした。
とくに都市では,食糧不足が深刻で,やみ市がはやり,農村への買出しがさかんに行われました。
戦地からもどってきた兵士や満州・朝鮮・台湾などから引き上げた人々なども加わって,
1945年秋には失業者は1400万人といわれました。
その一方で,それまでの軍国主義的な考えが消え,言論統制されていたマスコミから,
戦争責任を問い,真理を知ろうとする主張も生まれるようになりました

元の教科書画像
■尖閣諸島領有権問題

1895(明治28)年 1月14日,閣議決定により,領土編入
1932(昭和 7)年 内務大臣は魚釣島,久場島,南小島,北小島を古賀善次氏に払い下げ.4島は私有地となる
1970(昭和45)年 外務大臣が改めて尖閣諸島は我領土と公式に表明
1974(昭和49)年 南子島,北子島を埼玉県在住の個人が古賀善次氏から買い取る
1978(昭和53)年 古賀善次氏が死去し,古賀花子未亡人から埼玉県在住の個人が魚釣島を買い取る
1979(昭和54)年 魚釣島にヘリポート建設,沖縄開発庁の「尖閣諸島利用開発調査団」が上陸調査

1969年,周辺の海底に石油,天然ガス資源理蔵の可能性が指摘されると,翌年に中国と台湾が領有権を主張。
3国間でにらみ合いが続いている。
国連海洋法条約の批准で,周辺を共同管理水域とするなど何らかの対策が迫られている。

元の教科書画像
■お 得情報盛りだくさん
■高性能レンタルサーバ